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ハーフライス略してスキヤキ(Tomo)から見たRefion13の歴史

某年9月サラリーマンの第2子(長男)としてTomoが生まれる。

幼稚園のころ、Drのミックスグルリ(Shin)と出会う。…出会っているはず。
仏教系の幼稚園で当時彼はお遊戯会でお釈迦様の役を演じていたはずだが
現在の彼を見る限りお釈迦様の教えは彼には伝わらなかったようだ。
その後小学校のころはよく遊んでいたがだんだん疎遠になる。

平成9年4月、M高校でMETAPANと出会う。
女子の多い学校で近くの席に座っていた男子は彼だけだった。
それにしても桜でんぶのネタ、よく覚えていたなぁと感心する。

同年6月、高校の友人から借りたビデオ(ハイスタンダードにライブ映像)を見て強烈に感動し、
音楽に興味をも持つ。 友人にビデオを返したとき友人が言った「俺ギター持ってるんだ」という一言に
「じゃあ俺ベースやるよ!」と即答し、楽器を持つようになる。

平成11年3月、まったく上達していない自分の腕前をそっちのけにして
「人の曲が弾けないなら自分で作ってしまえ」という理由によりオリジナル曲を作る。
このときギターで参加してもらったのがMETAPANであり、
このとき現在のバンドの雛形(といっても二人だけだが…)が出来上がる。

同年7月、廊下の隅でコンサートat高校の文化祭。このときできていたオリジナルは3曲。
このとき集めた募金はユニセフを通じて寄付いたしました。当時募金に協力していただいた方々、
この場を借りて改めて感謝いたします。

平成12年夏、Tomo、モーニング娘。の石川梨花にはまる。

平成13年初夏、METAPANとバンド活動を再開。始めた当初は女性ボーカルのバンドだった。

同年秋、“やっぱりHEAVY METALがやりたい!”という二人の意見が一致し、
メンバーチェンジを経て男性五人組バンドに変更する。

平成14年3月、ライブを行う。
当時のバンド名、正しい表記は“ちぇいんそぅ”。俺は英語表記を提案したのだが、
どういうわけかひらがな表記になってしまった。
このとき俺がやってしまった失敗談はMETAPANが語る歴史参照。
ちなみにそれ以降は演奏中に弦を切るというアクシデントは回避できているので一安心。

同年4月、メンバーの諸事情によりバンドは空中解体。

平成16年5月、バンドをまたやろうと決意(このときすでにギターに転向)。
そしてあるきっかけで知り合っていたメロデス(Hiropon)に
「一緒にやるメンバーが決まってないなら一緒にやらないか?」
と声をかけ参加してもらうこととなった。そのほかのメンバーにもメールをしていたのだが
どうもうまく伝わらなかった人がいたようだ。

同年7月、第1回バンドミーティング開催。メールがうまく伝わっていない人発覚。
ってか俺が悪いのか(笑)ちなみにこのとき俺が「今晩うちスキヤキなんだよね」と言ったために
スキヤキと呼ばれるようになった。あと、「卵は一日1個まで」がバンド内に定着する。

平成17年7月、島村楽器利府イオン店において現在のバンドの初ライブ、HOT LINEに参加。
緊張のあまりトークなし、ただ曲をやっておしまいと言う今にして思えばよろしくない結果だった。

同年8月〜9月頃、バンド名変更ミーティング開催。各種様々な意見が飛び交う白熱した議論が展開された。
その結果、METAPANが提案した「Refion13」が正式採用される。

同年秋、某雑誌主催のオーディション参加。すさまじい酷評を得る。このとき印象に残ったのは
審査員の人が言った「メロデス?何それ?」と言うコメントだった。

同年12月、初のバンドメンバーで飲み会開催。
Hiroponが「それは心の贅肉ですよ」との意味不明の名言を残す。

平成18年3月、島村楽器の録れコンに応募。バンドで1曲、METAPANとスキヤキがそれぞれ個人で
1曲ずつ応募している。店長から「大口の客」と呼ばれる。

同年7月、HOT LINE参加。自分たちの演奏を楽しそうに見てくれている人を発見。とてもうれしくなる。
さらには自分たちのまったく知らない人が1票を投じてくれたことに感激を覚える。

同年9月、某楽器メーカー主催のコンテストに参加。
自分たちの演奏の後、握手をしてくれた人がいた。自分たちのやっていることが
ほんの少しでも伝わっていることに感激した。
ただ、審査員の評価は相変わらず要努力であった。METALにはあまり明るくない人なのかもしれない。



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